2007年バンクーバー

ビョークの肖像

Michael Chapman
作者: Michael Chapman
認証済みのスペシャリスト

2013年、ハリケーン・フェスティバル. Wikimedia. Creative Commons. Credit: Zach Klein.

世界を虜にする歌姫ビョーク。彼女はアイスランドの国宝ともいうべき存在です。小さな島国アイスランドを飛び出し世界中で活躍する彼女は、その素晴らしい創造力で、アートの世界に大きな影響を与えてきました。

前例を見ないイノベイティブな音楽やアートを作り出す彼女は、まさにアート界の女神のような存在です。

また、彼女個人のキャラクターも注目の的。ビョークの感情豊かな性格や態度も有名です。レイキャビクで生まれ育ち、1980年代から世界の注目を集めてきました。アイスランドはユニークな音楽を生み出す世界的なアーティストを輩出する国として知られていますが、その理由としてビョークの存在は欠かせません。



元首相のダーヴィズ・オッドソン( Davíð Oddsson)は、ビョークの貢献を大いに称えて、2000年にエリザエイ( Elliðaey )島の所有権を与えることを提案。計画は成立しませんでしたが、ネット上では本当の話のように語られていることがあります。

ビョークのツアーよりWikimedia. Creative Commons. Credit: A.maldon

世界的に大成功した後も、ビョークは故郷や家族への感謝を忘れることはなく、仕事への誠実な姿勢は変わることはありませんでした。

「…アイスランドには階級はなく、誰かが特に偉いということもないわ。だから、私がサインをする(サインをして他の人より価値があるということ)ことはちょっとばかげていますよね。大切なのは自尊心を持っているかどうかということよ。」

そう語るビョークの故郷に対する敬意の念は深く、公の場で重工業の危険性を訴えたり、アイスランドの環境保護の重要性を主張することもありました。

「私がまだティーンエージャーだった頃、ヒッチハイクやキャンプなどしながら毎年一人で数日間過ごしたの。13歳の時、初めてもらったおこずかいでテントを買ったわ。その時の体験が私の思い描く理想的な自由。このような理想を持っているのは私だけではないわよね。アイスランドの自然の風景にはには神聖さが宿っていると思うわ。」

ビョークの才能と功績はアイスランド国内にとどまりませんでした。2015年の時点で、彼女は2〜4千万枚のアルバムの売り上げという驚異的な記録を残しています。

アイスランドから羽ばたいた若くてクリエイティブな彼女は、海外のファンの心をどのように掴んだのでしょう。

ビョークの幼少期       

ビョークの本名は、ビョーク・グズムンズドッティル(Björk Guðmundsdóttir)。1965年11月21日生まれで、環境活動家である母親のヒルドゥル・ルナ・ホイクスドッティル(Hildur Rúna Hauksdóttir)に育てられました。ビョークが生まれて間もなくヒルドゥルは当時夫であったグズムンドル(Guðmundur)と離婚。

ヒルドゥルは娘を連れて、「アイスランドのジミー・ヘンドリックス(Jimi Hendrix)」とも言われたギタリストのサイヴァル・アルナソン(Sævar Árnason)と再婚しました。アーティストやミュージシャンが頻繁に家に集まり、音楽を演奏しながら交流しました。こうして、ビョークは幼い頃からボヘミアンな音楽環境に接しており、これが彼女のキャリアに大きな影響を与えます。

天才少女と言われ、6歳から14歳までレイキャビクの音楽学校に通い、フルートやピアノ、クラシックを学びました。初めて音楽家として活動したのはこの学生時代のことでした。

11歳の時、ビョークは学校を訪問した保護者の前で歌う機会があり、ティナ・チャールズ(Tina Charles)の1976年のヒット曲 ‘I Love to Love (But My Baby Loves to Dance)’を披露しました。その歌の素晴らしさに貫録を受けた教師たちがアイスランドの国営ラジオ局(RÚV)に彼女の録音を送ると、ここでも好評を得て全国放送されることになりました。

レイキャビクで幼少期のビョークCredit: Icelandic Music Museum 

この録音は当時レコードレーベルだったファルキン(Fálkinn)の代表の耳にとまり、早速ビョークと契約を結びました。(Hljóðriti Studios)で収録された1977年のデビューアルバム「ビョーク(Björk)」は、主にアイスランド語に翻訳されたカバー曲で構成されています。

スティーヴィー・ワンダー(Stevie Wonder)の‘Your Kiss is Sweet’やレノン=マッカートニー( Lennon-McCartney)の‘The Fool on the Hill’などが収録されています。‘The Arab Boy’は義父のサイヴァルが作詞した歌です。

ファーストアルバムの表紙は母親のヒルドゥルがデザインし、家族の協力により完成しました。このアルバムは少なくとも7000枚のレコードとカセット両方で限定発売されました。この時、ビョークはたった12歳でした。

アルバムがアイスランドの音楽チャートに入ると、ビョークはむしろ消極的な有名人になりました。クラスメートたちは、彼女の気を引こうと、ビョークをちやほやとしましたが、それはビョークが望んでいたものではありませんでした。こうして、ビョークは空いた時間を大人のミュージシャンたちと過ごすようになりました。

周りのミュージシャンたちからは2枚目のアルバムの製作を勧められましたが、ビョークが再び音楽の世界に目覚め活動を再開したのは1979年のことでした。

15歳になると、ビョークはイギリスのハードコア・パンクバンド、ディスチャージ(Discharge)の衣装に魅了されるようになりました。眉毛を剃ったビョークは女性のみのパンクバンド、スピット・アンド・スノット(Spit and Snot)を結成。しかし、メンバーの態度や男性を嫌う歌の内容に問題があり、バンドはすぐに解散しました。

1年後、彼女はポップ/ニュー・ウェーブを歌うエクソダス(Exodus)というという新しいバンドに参加しました。その演奏はたった一枚のカセットにしか残っていませんが、エクソダスはテレビで取り上げられ、ビョークは再び脚光を浴びました。その後、彼女はバンドのジャム80(JAM80)と一度共演します。

タッピティカラス Tappi Tíkarrass        

その後、タッピティカラスのバンドでビョークはプロのミュージシャンとして活動を開始します。エクソダスのベーシスト、(Jakob Magnússon.)とも共演。衣装はパンク系でも、音楽はロック、ジャズやファンクの要素が含まれていて、ビョークの自由なアーティストとしての素質が現れています。

Tappi Tíkarrassは2年間活動し、パンクのEP ‘Bitið fast í vitið’ (1982)とその後、アルバム‘Miranda’ (1983)をリリース。彼らの軽いリズミカルな曲はロックバンド、ザ・キュア( The Cure)の初期の音楽を連想させ、タッピティカラスは新たな注目を集めました。しかし、ビョークの声は、今後シュガーキューブス The Sugarcubesやソロアーティストとして活躍する時に比べ、まだまだ力不足なものでした。

タッピティカラスは、スラォイン・ベルテルソン(Þráinn Bertelson)監督のアイスランドのコメディー映画「Nýtt líf (新しい人生 1983)」やフレドリック・トール・フレzyリクソン(Friðrik Þór Friðriksson)監督のビドキュメンタリー「Rokk í Reykjavík(ロック・イン・レイキャビク)」に出演。 ビョークは映画のサウンドトラックの中の2曲を歌い、アイスランドの80年代のパンクのアイドルとなりました。

Rokk í ReykjavíkのポスターCredit: Icelandic Music Museum 

ククル K.U.K.L        

1983年、グラム・レコーズ( Gramm Records)の(Ásmundur Jónsson)はビョークをリードボーカルとしたスーパーグループの結成を提案しました。アウファンガル(Áfangar)というラジオ番組の最終回にこのバンドがライブで演奏するという意図があり、見事に成功。そして、バンドメンバーは正式にククル K.U.K.L(中世のアイスランド語で「魔法」の意味)を結成しました。

1年後、ファーストアルバム「ザ・アイ(The Eye)1984年」がクラス・レコーズ (Crass Records)からリリースされました。アルバムの名前はビョークが影響を受けたジョルジュ・バタイユ(George Bataille)の小説「眼球譚(Story of the Eye)1922年」に由来しています。

アルバムは全英チャートで6位を獲得、高い評価を得ました。サウンズ・マガジン( Sounds Magazine) のデヴィッド・チベット(David Tibet)は次のように述べています。

「ジ・アイはクラス・レーベルの枠を大胆に超えている。そして聴いている人を混沌と困惑に満ちた氷河の世界へと引きずり込むようだ。」

ククルは1984年と1985年にヨーロッパでのツアーを行い、パリのエル・ドラド(L'Eldorado)、オランダのパンドラの箱フェスティバル(Pandora’s Box Festival)やデンマークのロスキルド・フェスティバル(Roskilde Festival)に出演しました。この期間中、バンドはロック歌手のメガス( Megas)を含む様々なアーティストとコラボレーションしました。

K.U.K.L.のメンバーCredit: Icelandic Music Museum 

ククルはテレビ出演もしましたが、ビョークが妊娠7ヶ月にも関わらず、露出の多い服装で歌ったことは印象的です。1986年にクラス・レコーズとセカンドアルバムの「ホリデイズ・イン・ヨーロッパ(ザ・ノーティー・ノット)Holidays in Europe (The Noughty Nought)’」をリリース。このアルバムでは電子楽器を中心とした演奏です。

その夏、バンドのトランペット奏者兼ボーカルのエイナール・オゥルン(Einar Ørn)がイギリスからアイスランドに戻り、新しいレコードレーベル、バッド・テイスト(Bad Taste)を立ち上げました。ククルは解散し、元メンバーの4人は新しいバンド、シュガーキューブス(The Sugarcubes)として活動を開始しました。

ザ・シュガーキューブス The Sugarcubes         

シュガーキューブスはアイスランドで生まれた最高のロックバンドと言われています。1986年にファーストアルバム「ライフズ・トゥー・グッド(Life’s Too Good)」をリリースし、高い評価を得ました。同じ年にビョークは当時の夫、ソー・エルドン(バンドのギタリスト)との息子を出産しています。

結成当初からこのバンドは斬新な存在でした。ロンドンのレーベル、ワン・リトル・インディアン( One Little Indian)とアメリカのレーベル、エレクトラ( Elektra)と契約を結び、デビューしたビョークたちは80年代ポップ音楽界のスターになりました。そして、シングル「バースデイ( ‘Birthday)」はハンドの海外ツアーをする絶好の機会でした。

1988年にはアメリカのテレビ番組、サタデー・ナイト・ライブ( Saturday Night Live)に出演し、ニューヨークのザ・リッツでも演奏。デヴィッド・ボウイ David Bowieやイギー・ポップ Iggy Pop もシュガーキューブスの音楽のファンになりました。これほど活躍したミュージシャンはアイスランドの歴史上いないでしょう。

1989年のセカンドアルバム「ヒア・トゥデイ、トゥモロウ、ネクスト・ウィーク!(Here Today, Tomorrow Next Week!)」は残念ながらあまりヒットしませんでした。2回目の世界ツアーの後、バンドは解散を考えたほどですが、活動休止を選びました。

The SugarcubesのビョークWikimedia. Creative Commons: Credit: Masao Nakagami 

1990年にリリースされたシュガーキューブスの3枚目で最後のアルバム「スティック・アラウンド・フォー・ジョイ(Stick Around For Joy)」。これはセカンドアルバムより高い評価を受け、「ヒット(Hit)」というメジャーヒット曲も誕生しました。U2のZoo TVツアーに参加した時は、70万人を超える観客の前で演奏しました。この大活躍にも関わらず、バンドは2年後に解散しました。

2006年、シュガーキューブスはバッド・テイスト・レーベルの資金集めとアイスランドの音楽を広めるためにレイキャビクでコンサートを開催しました。しかし、これ以降はシュガーキューブスとして活動する予定はないことを明確にしました。

ビョークのソロ活動      

シュガーキューブスの解散とビョークの2回目のソロ活動の間、ビョークがどのような生活をしていたかは謎です。80年代にシュガーキューブスが作った借金を返すために、彼女はアンティークショップで働いていた、また小さな出店で働いていたという説があります。

どちらにせよ、ビョークは今後も音楽の道を歩む覚悟はできていました。

彼女の知らないところで、ソロアーティストとしての活躍の時は近づいており、今まで知っていたものとは全く違う音楽の世界が彼女を待っていました。

Debut (1993), Post (1994) and Telegram (1996)           

シュガーキューブスでの活動が終わる頃、ビョークはバッド・テイストに自分の曲のデモテープを送っていました。その時のことをビョークは次のように振り返っています。

「今録音しなければ、一生しないと思ったの。私は何年も頭の中に浮かんでいた曲を全て録音したわ。」

シュガーキューブスが活動休止すると、ビョークはロンドンへ移住。ブライアン・イーノ、ケイト・ブッシュやアシッド・ハウスなど、彼女の好みと合う新しい音楽仲間と出会うこととなったのです。

1993年のファーストアルバム「デビュー(Debut)」は、ソウル・II・ソウル( Soul II Soul )やマッシヴ・アタック(Massive Attack)との仕事で有名なネリー・フーパー( Nellee Hopper)がプロデュースしました。初めはネリーと仕事をすることに消極的でしたが、すぐに彼からインスピレーションを受け、アルバムの製作は順調に進みました。

アルバムは成功し、ビョークは1994年のブリット・アウォーズ(Brit Awards)で最優秀新人賞(Best Newcomer)と最優秀国際女性アーティスト賞(Best International Female)を受賞しました。

セカンドアルバムではビョークの作詞作曲にも進展がありました。「デビュー」はアイスランドで製作されましたが、「ポスト(Post)」ではビョークの新しい拠点である、ロンドンの勢いとエネルギーが表現されています。今までのアルバムとは違い、808ステイト(808 State)のグラハム・マジー(Graham Massey)やマッシヴ・アタックのトリッキーなど、複数のプロデューサーがコラボレーションしました。

「ポスト」の曲は聴きやすく、感情的なメロディーや新しい感覚の音はファンに好評でした。

その後ビョークは「ポスト」に続き、リミックスアルバム「テレグラム(Telegram)」をリリース。「私にとって、「テレグラム」は「ポスト」の曲の全ての要素を誇張したアルバム。だから、実はリミックスアルバムとは正反対のものなんです。「テレグラム」はよりシンプルで、飾っていません。私が買いたくなるアルバムです。」

このような自己評価に対し、評論家たちは「テレグラム」は単なるビョークの自己満足であると批評しました。

ホモジェニック Homogenic (1999) とストーカー事件            

1996年、フロリダに住んでいたリカルド・ロペス Ricardo Lopezという精神の不安定な男性が悲劇を起こしました。劣等感と自己嫌悪感に悩まされていたロペスは、18歳の時より、女性アイドルに対して異常な執着を抱いていました。若いアメリカの女優を襲ったこともあるロペスですが、偶然にPVで目にしたビョークに執着するようになりました。

当初、ロペスはビョークの人生を研究し、ファンメールを書くことで満足していました。しかし、それは徐々にエスカレートし、ビョークに危害を与える思想に発展します。自己批判的思考や満たされない気持ち、そしてビョークを襲う計画は803ページにもわたり彼の日記に事細かく記されています。

イギリスのプロデューサー、ゴールディー Goldieとビョークの関係を知ったロペスは、深く裏切られたと感じ、怒りを募らせました。そして、ロペスはビョークを殺害することを決心し、くり抜いた本の中に爆弾を仕掛け、それを送りつける計画を立てました。

ロペスはビョーク宛にレコードレーベルを通して見せかけの小包を送り、その後、自殺。警察はロペスの遺体と共に爆弾計画の資料を発見し、小包はロンドンの郵便局で見つかりました。FBIが爆弾の処理を行い、幸いにも犠牲者が発生することはありませんでした。

この事件でビョークは大きく心を痛めました。自分自身と彼女の息子にどれほど危険が迫っていたか、そして、どれほど見知らぬ人が彼女のプライベートを乱すことができるのかを思い知ったのです。ビョークは息子の安全を最優先にしました。

その後、メディアの注目を避ける為、ビョークはスペインに移り、3枚目のソロアルバムの製作に専念しました。

アルバム「ホモジェニック( Homogenic)」は「苔が茂った荒れた火山」の音をイメージしています。このアルバムはビョークの象徴的なメロディーと歌詞で構成されていて、アーティストとしてはこの時が一番充実していました。ネリー・フーパーとではなく、他の複数のプロデューサーとの共同製作でした。

「ホモジェニック」は1999年のグラミー賞(Grammy Awards)で最優秀オルタナティブ・ミュージカル・パフォーマンス部門にノミネートされ、スラント・マガジン(Slant Magazine)は、「90年代のベスト電子音楽アルバム」と発表。そして、ブリット・アワード(Brit Awards)では最優秀インターナショナル女性ソロアーティスト賞(Best International Female)を受賞し、こんな感謝の言葉を述べました。「私はとっても感謝している(グレイトフルな)グレープフルーツよ。」

ダンサーインザダーク、セルマソングス Dancer in the Dark、Selmasongs (2000)          

2000年、ビョークはラース・フォン・トリアー( Lars Von Trier’s)のミュージカル「ダンサー・イン・ザ・ダーク(Dancer in the Dark)」で主役のセルマを演じました。ビョークは「私は音楽家であり、女優ではない」と主張しましたが、監督は約1年かけて説得し、ミュージカルへの出演が決まりました。

撮影現場ではビョークのとっぴな振る舞いが有名です。毎朝、撮影開始前にビョークは監督に近づき「フォン・トリアーさん、私はあなたが大嫌い」と言って、唾を吐いていたようです。

ビョークは、フォン・トリアーはセクシストで、一緒に仕事ができないと主張しました。そして彼女は突然3日も現場に現れなかったりと、撮影は遅れました。また、衣装を部分的に食べたのではないかと疑われることもありました。ビョーク自身にとって、この撮影は大変な経験でした。

 

当初、フォン・トリアーはセルマを罵倒する怒った人物を演じる予定でしたが、ビョークとの関係を考慮し、お互い過剰反応しないように、別の俳優と交代することになりました

この経験を通し、ビョークは二度とミュージカルはしないと誓ったにも関わらず、その年のカンヌ映画祭(Cannes Film Festival)では主演女優賞を受賞。映画の評価は両極端で、芸術的に優れていると絶賛する人もいれば、仰々しいと非難する人もいました。

映画の公開に合わせて、ビョークはアルバム「セルマソングズ(Selmasongs')」をリリース。このアルバムは好評でしたが、映画と同じように批評家からは両極端の評価を受けました。

「セルマソングズの大部分はエクスタシーのチューンを見せていて、警察が取り締まりに来ないかいの祈るほどだ」とある批評家は言い、別の批評家は「セルマソングスはビジョンを失っていく女性の肖像を描きつつ、ビョーク自身のユニークなビジョンを描き切っている」と評しています。

‘I’ve Seen it All’の曲はアカデミー賞( Academy Award)でベスト・オリジナル・ソングにノミネートされました。授賞式では、ビョークは有名な白鳥ドレス(‘swan dress)を着て、そこからレッドカーペットに大きなダチョウの卵を落としました。

白鳥のドレスはビョークの4枚目のソロアルバム「ヴェスパタイン(Vespertine.)で再び登場します。

悪名高い白鳥のドレスWikimedia. Creative Commons. Credit: Christia Del Riccio. 

ヴェスパタイン Vespertine (2001)          

ヴェスパタイン(Vespertine)は、ビョークの生活の2つの経験に大きく左右されました。1つ目は、ラース・フォン・トリアーとのハードな仕事の経験。2つ目は彫刻家・写真家・映画監督であるマシュー・バーニー(Matthew Barney)との新しい恋。ビョークは、ダンスホールの女王であった時代を離れ、親密で感情豊かな曲を書きました。 

ヴェスパタインのアルバムの製作は仕事というより趣味のようであり、「ダンサー・イン・ザ・ダーク」を撮影している時期から始められていました。静かで落ち着いた音色は、映画で演じた活発な役柄からの脱出を試みる表現でした。

ビョークはアルバムの製作の為、何時間もノートパソコンに向かいました。そのため、ヴェスパタインはビョークの「ラップトップアルバム」として知られています。ビョークの日常生活の中から生まれたエレクトロニカレコードです。

このアルバムは、官能的でエロティックな歌詞と多層でリズミカルな音でファンを魅了し、高い評価を獲得しました。全英アルバムチャートで8位、アメリカのビルボード200で19位、そしてイギリス、フランスとカナダではゴールドディスクに認定されました。

14年後、ビョークはピッチフォーク(Pitchfork)の雑誌に、アルバムを製作したのは彼女自身の実力であるのに、そのことが認められていない不満をこぼしました。

「ヴェスパタインのビートの80%は私が作り、アルバム作成に3年もかかったのよ。それは大きな刺繍作品を作るようだわ。その一方でマトモスは最後の2週間で曲にパーカッションを加えただけで、主要な部分は何もしていない。なのに彼らは、アルバム全体を製作したかのように周囲から認められている。」

ビョークは常に音楽業界の女性差別を主張してきましたが、最近になってフェミニストであることを明かしました。2015年には、「男が1回言えばいいことを、女性は5回言わないといけない」と発言しました。ビョークは若い女性に希望を与える為、いかに新しい女性ミュージシャンが男性ミュージシャンのように認められるのが大変か、シュガーキューブスのリードボーカリストの時の苦労を語りました。



メダラ Medúlla (2004) 、拘束のドローイング Drawing Restraint (2005)           

メダラ(Medúlla)はビョークの独特な作品で、様々なボーカルや効果を使い、主にアカペラ a cappellaで構成されています。ビョークは政治的なアルバムとしてリリースし、9月11日のアメリカ同時多発テロ事件September 11th attacks後に復活したナショナリズムに対する反抗であると主張しました。

アルバムはグラミー賞に2回ノミネートされ、世界中の多くの音楽チャートで1位になりました。しかし、収録されている曲はライブで演奏するのは難しいと感じ、ツアーは行いませんでした。その代りに、ビョークは2004年アテネオリンピック に出演するようオリンピック委員会から依頼されました。オリンピックでは、曲‘Oceania’を披露し、世界地図を表したドレスでステージに登場しました。

ビョークは再び女優として、当時の夫の映画「拘束のドローイング9( ‘Drawing Restraint 9.’)」に出演。日本の文化を抽象的に表現しているこの映画は、対話はなく、彫刻、音楽と映像で物語を伝えています。

映画のサウンドトラックもビョークがプロデュースしました。同じ年に彼女は別のドキュメンタリー映画「スクリーミング・マスターピース( Screaming Masterpiece)」にも出演し、アイスランドの音楽について語っています。

ヴォルタ Volta (2007) 、ヴォルタイック Voltaïc (2009)     

6枚目のソロアルバムの収録は、インドネシアのバンダ・アチェから帰国してから開始しました。インドネシアでは、スマトラ島沖地震で犠牲になった子供たちのユニセフによる支援活動を見学しました。この経験は曲"Earth Intruders"に大きな影響を与え、当初は10分間であった曲をアルバム用に編集しました。また、インドネシアのチャリティー活動に資金を提供する為、チャリティーアルバム'Army of Me: Remixes and Covers' をリリースしました。

 

ヴォルタ(Volta)はビョークのポップミュージシャンとしての復帰を意味し、好評でした。過去3つの作品は真面目で感情的でしたのが、今回はアップテンポで楽しい雰囲気のアルバムをリリース。ヴォルタは、ビョークがマーク・ベル(Mark Bell)、ティンバランド(Timbaland)やデンジャ(Danja)などのアーティストやプロデューサーを招いて、主にコラボの音楽を手掛けました。

アルバムは誤って予定より2週間前にリリースされ、インターネット上で6時間ほどアクセスを許し見事に流出。しかしこの事件に関係なく、ビョークはアルバムの世界ツアーを開始し、グラミー賞で最優秀オルタナティブ・ミュージック・アルバム賞(Best Alternative Music Album)にノミネートされました。

ヴォルタイック('Voltaïc',)は、ヴォルタに関連した5つの作品のリリースでした。ライブDVD、ヴォルタのミュージックビデオのDVD、ヴォルタのリミックスCDや11曲のオリンピックでのレコーディングCDなどが含まれています。

バイオフォリア Biophilia (2011),ヴェルニキュラ Vulnicura (2015) そして現在         

2007年バンクーバーWikimedia. Creative Commons. Credit: Jhayne 

バイオフィリア(Biophilia)はビョークの7枚目のソロアルバムであり、初のコンセプト・アルバムです。2008〜2011年にアイスランドで発生した金融・経済危機の時に製作され、自然と技術の関係を探求したマルチメディアプロジェクトとして取り組みました。様々なアプリを通してアルバムをリリースすることによって、音楽を世界に配信するあらゆる方法を追求しました。

このアルバムは大成功。数々のメディアでその年の最優秀アルバムに選ばれ、第55回グラミー賞で最優秀レコーディング・パッケージ賞を受賞し、ほぼ全ての海外の音楽チャートでトップ40までに入りました。バイオフィリアのリミックスアルバムも2枚誕生しました。

このアルバムのリリースに伴い、ビョークは携帯アプリの配信を始め、後にバイオフィリア教育プログラム(Biophilia Educational Program)に取り入れました。プログラムの主な目的は、子供たちが科学、音楽と最新のテクノロジーを通して創造力を伸ばすこと。ビョークはこの頃、4大陸での教育ワークショップに参加しました。

ビョークの技術者としての細部への配慮と、芸術家としての探究心が感じられます。このプロジェクトは成功し、実際、スカンジナビアの多くの学校でカリキュラムの一部として採用されています。

 

ビョークの8枚目のスタジオ・アルバム、ヴェルニキュラ(Vulnicura)の製作当時、マシュー・バーニーとの離婚とそして娘の親権争いという戦いの中にあり、アルバムはその影響を受けました。バイオフィリアより3年経ち、音楽出版社やファンはヴェルニキュラに大きな期待を寄せていました。NMEは、2015年はビョークの大復帰の年となると主張していました。

このアルバムはベネズエラのアルカ(Arca)がプロデュースした、エレクトロニカとアンビエント・ミュージックの要素を取り入れたものでした。しかし批評家は、1997年のホモジェニックを連想させると指摘。曲に弦楽器を多く使用することで、ビョーク自身が癒されたのでしょう。

「今の苦しい状況を乗り越えるには、弦楽器の音楽を作曲するしかない。私はヴァイオリンおたくになって、全ての曲を15の弦楽器のためにアレンジし、さらに追求した。」

このように、ビョークは再び新たな創造力を探求しました。最新のバーチャルリアリティプロジェクト「ビョーク・デジタル(BJORK DIGITAL)」は現代技術と最新の実験的音楽を融合し、サイケデリックで躍動感溢れる作品です。ビョークの最先端アーティストとしての活躍はまだまだ続きそうです。

2017年には、スペイン、日本やアメリカなどでビョークのツアーが行われました。音楽、映画、展覧会や全く新しい企画など…ビョークの揺るぎない創造力に影響を受けた多くのファンは今後の彼女に大きな期待を寄せています。

 

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